昭和40年05月13日 朝の御理解



 神様が下さろうとする、おかげが次々と本当に神様が(30数秒録音悪し)頂けないほうも残念ですけれども、それより残念なのは神様のほうですね、確かそれをきちきちっと頂き止めていって、神様もご満足なら私共も喜ぶことが出来る。そして、みんなも、おかげ求めていないかというと求めておるのですから、そこんところを大事にしていかなければなりませんね、信心は。
 今朝から、昨日から身体がこんなに悪いんですけれど、今朝、目覚ましのおかげを頂いてから、洗面を終わって、したら、あの誰もおりませんもん。家内を呼びましたら、今日は、子供が旅行で、旅行の用意をしてやってるんですね。それで、あの「あぁ」、そうだった、今日は幹三郎の旅行だったね、とこう、思わせてもらったんですけれども、それが、そう思わせて頂くということが、おかげなんですね。
 朝、私がここへいわば出仕してまいります。ね。その出仕の準備が、誰かが手を取ってくれなければ、特に身体が悪いとあるいは帯びもしてもらわんならん、足袋も履かしてもらわんならん、それで、誰も居りません。それはね、私という者をいつも中心にして考えておる。相手の気持ちなんかは、全然考えていない。相手の気持ちにならせて頂きますと、相手には、相手のやっぱり都合があるのである。
 しかも今日は家内にしては、子供の五時半から行かんならんという、旅行の準備をしてやっておるわけである。「ああそうだったね、今日は幹三郎の旅行だったね」と思うだけでおかげ頂いておるんですからね、それにこうわが方が大事だっと、こう思うほうを中心にいたしますとですね、心が穏やかじゃないです。そして洗面所にやらせて頂いてから、帰ってまいりましたら、このくらいの帯もできるし、足も足袋も自分ではけるおかげを頂いてるんですね。
 行きがけと、ここから洗面所までの行き戻りの間で、おかげ頂いているんですね。ね、とにかく私は、思うのにですね、信心させて頂いて、おかげをきちっと頂き止めるということはですね、神様を中心にした生き方でならなければいけないという事ですね。昨夜福岡の御大祭で御座いましたからもう皆さん送ってきて下さった。それからこちらからいっておる人達もそれぞれ自動車に分乗して、皆んなこちらは帰って見えた。
 だからあのう、久留米の(きよし?)さんたち夫婦が、参ってきとりますから、あの人なんかはよう信心しますけど、いつもその自分が中心なんですね。誰だって自分が中心ですけど、特にそうなんです。ところが、昨日こちらに参ってきておる、「今日どうしてか」と、言うたところがその、乗せた人が悪かった。「こちらへ帰ってくるのがひとり乗せ合わせしておった」ち、いうわけなんです。
 だからよんどころなしまここへ、牛に引かされて善光寺参りした訳なんですね。ですから。昨日の晩にはおかげ頂いておる、おかげでお参りがでけた訳なんですね、まあ神様が自分を中心にする心持を、あのそれではおかげは受けられないとね、神様はいつもこのとうりでなからないけんという事を教えて下さった様に思うのです。神様がいつもそうして教えて下さるのですから「その時だけでなくて何時もそうするのが本当だ」と、
 神様を中心に申し上げた所の、いき方私の都合という事を先頭に立てずにですね、神様を中心にして御覧なさい必ずおかげ頂きますよ。「今日はああたこげな都合で御座いますけん」ち、言うても、私の都合ね、私の都合はこうで御座いましょうけれど、神様にはどういうご都合がおありになるやら分からん。しかもこのご都合が「今日はやろうぞ」と思うてござったかも知れん。
 こっちが願うておるもの、ね、そういう意味です信心は実意丁寧でなからにゃいけん、実意丁寧神信心ということが、いえるわけです。大変なおかげをですね、頂き洩らすことがあるんですよ。ね、そうだから、神様を中心にした考え方、いよいよ信心を、今日の、秋永先生ところでのお説教ではないですけれども、ね、ただ、おかげということだけを考えてからの信心だったらです、それは、腰掛の信心にすぎないと。
 まあ誰だって腰かけの信心から入ってくるんですから、腰かければ良いのですけども、一生、もし、腰かけの信心だったとするならそれだけのこと。ね、信心が命でありいや信心が命以上になって来るという時にです、ね、本当のおかげが頂かれるのであり、お徳を受けられるのであり、なるほどお徳を受けるということは、信心が命以上になっているというとき、いわば肉体はその人一代なんでしょうけれども、魂の助かりということは、あの世までも繋がるものである。
 しかもその人が残しておけれるところの、お徳というものは、子々孫々までも残るものである。ということしてみると信心がね、命以上までというところまで進められていかなければならないという事が、分かるでしょう。まその事についてまあ色々頂いたんですね。昨日は例えば自分の穏やかでない心と穏やかな心と、そこでもうおかげの「おかげは和賀心にあり」と仰る受け物が違うです。
 自分だけを中心にしておるとですね、例えば今朝ちょっとした事なんですけれども、ね、「私に保証してくれない」と、「どうしよるじゃろうか」というて、そのどうしよるじゃろかという心が、もうおかげが受けられない心なんです。「ああそうそう今日は幹三郎の旅行だったね」と、思う私のこころは平静であり穏やかである。自分が行きがけに動かなかった手が足が、もう帰りには動きよるとと言う様にですね。
 ですからそういう神様を中心に、神様を中心にさせよう、ようは自分を空しくさせようと、空しくさせようという働きがです、例えばいうなら清さん達の場合に、ね、現れているように思うですね。あれは例えばこちらに誰が誰かが乗ってきていましたんですねえ、昨日は清さんの車に、高芝さん清の車に。ああそうそう麻生さんと嘉朗さんとが乗っとる、さっちあっちば来んといけんですもんね。
 だから久留米で降りる人達が乗っとりゃ、あと狂わんでよかったっですたい。だからそのところをそのばからしいこと、そういう場合はいっつもあるんです、お互いがいつも自分が中心ですからねやっぱり。ですけど神様がね、どうしてもそのそれでおかげを受けられんから、その神様中心で行かにゃいかんぞと言う事を、こう誘導して下さる。ね、だからおかげを頂いてから、麻生さんと福岡の人を乗せておったおかげで、今日は椛目参りが出けたというように。
 私しは頂かにゃならんとこだと、あなた方ば乗せとったけん椛目にとうとう来てしもうたというんではなくてですね、そいう働きは何時もあっているんです。そうじゃなからなければおかげは受けられんです。ね、それはお願いをしたことをおかげを頂いて、ならおかげを数をあげりゃ沢山頂いておりますけれども、んなら肝心要の本当のおかげを神様が下さろうとしておる、そのおかげが、破れていくです。ね、
 折角神様が下さろうとしているおかげというのはです、私共が頂こうとするようなケチなおかげではないです。もう私共がもう本当に心の底からそのお願いが頂けたものと思うようなおかげを神様が用意しておって下さるのに、ただ自分だけを中心にしたために、そのおかげが崩れてゆく頂けない。神様ががっかりなら、私共も馬鹿らしい話だと。それが、実意丁寧神信心を言われる訳なんです。
 もう自分を中心にする時は、いよいよ反省しなければいけませんですね。もう何と言うても神様第一主義、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになって下さる」と、こうおっしゃる。氏子が神様本位なら、神様のほうが氏子本意になって下さる事になったら、どういう素晴らしい事になると思われますか、例え自分たちがこしかけて、信心ああして下さいこうして下さいというのを、お願いをするか、おかげを下さるというようなおかげじゃないです。「ね」、氏子が神様本位になるから、神様もまた、氏子本意になって下さる。
 この辺を思わせていただかにゃ、分からせて頂かにゃいかんですね。本当に自分の都合でもいう時にはですね、随分私は、もう、ほんと、しら真剣な、謙虚なお詫びがいるですね。けど、このことだけにゃ、もうあんまりお詫びせんですむような信心にならにゃいかん。だれが、何と言うても、こと神様の事だったら神様を中心にせにゃいけん。行くともう、腹定めとかにゃいかん。
 もう、20年も前の話なんですけれども、善導寺の御大祭の時、「ね」、御大祭前には奉仕させてもらい、それが、済んだらその翌日も、奉仕させてもろうて帰らせてもろうた。もう、遅かった。福岡に着いたのが、もうとにかく、10時位だったでしょうかねえ、とにかくその、終の電車でこちらへ来ましたから、帰りましたところが、自転車が盗られてるんです。
 それから、私共が帰りましてから、2、30分ぐらい致しましたら、その、自転車を持ってきて下さった、持ってきた人がありました、「こら、お宅の自転車でしょう」ち、いうてから、「はあ、そらあ、私共の自転車ですよ」ち、そしたらもう、何にも言わずにですねもうけそけそ逃げるように、その人が帰っていくんですね。誰もいなかったもんですから、もう、その人が自転車をもっていっとったのですたい。
 その証拠に、後ろに、その荷台に、荷物、あの綱も何も付けていなかったんですけども、綱が付けてあるです。それでまた、欲心を起こしたんですね、きっと。そっで、自転車だけでは、いかんけん、何か乗せていくもんはなかじゃろうかと、また、もって来とるとですたい。
 何か取りにきとるとと、私はそう思ったんですねえ、それで、それは私共とおおうと出たところとんで逃げるようにして行った。行くんですもん。「ね」、ところで自転車が、その、まだほかんもんを、もう、綱どん持って来てから、こしごししとです何か持っていこうと思うて来とるとに違いないですよ。そういうような、まあその時のことをいうと、大変いろいろと不思議なことがもっとあったんですがねえ。
 その、おかげを頂かせてもらったんです。そん時なんか、色々まだ私は、お知らせ頂かなかったんですけれども、あの、岩田屋のところで、あの居りますたいね、岩田屋からちょっと北へ、あの、長浜町の一丁目でしたから、あの、おる間ですたいね、「自転車が盗られた、自転車が盗られた」ち、いうて、胸知らせなんですたいね、「ね」、あの時分に、あの胸知らせがあのう、そういうおかげを頂きよったなと、自分で思うんですけれども、帰って本当に盗られておるんですからね。
 そしたら、三十分ほどしたら、持って来てくれた。もう今からすぐお礼に出れば、終の電車に間に合う。ところが、もう勿論そんなに遅いんですからバスはない。「ね」、いわゆるその宮の陣のほうへ行く電車も、もうないて、「ね」、それであの、善導寺に河野さんという人が、お店にきとりましたからその人を連れて私は、すぐ、大坪さん明日でよかでしょうもん、お礼に出るのはてこういう、いやもう今夜出るとかなんというて、わたくしは、善導寺にまたお礼に出てまいりました。
 ですから宮の陣から、テクテク善導寺まで歩いて、もう、月夜の晩でしたから信心話でもしてから、本当にあの、河野さんがもう、いつの間に善導寺に着いたか覚えんようにしてから、着いとる。もちろん、教会は休んであった。だから、もう、表からお礼させて頂いてから帰った。
 もう、何時間前に教会で御用させていただいて帰らせて頂いた、ところが、向こうでのおかげを頂いておった。だから、明日でよかたいといわずに、その場で、お礼にでてきた。勿論、それは、善導寺まで宮の陣から歩かんならんことは覚悟の前で「あー」、出てきた。
 そうしてですたい、善導寺にはもう、先生、電気が消えてたから、表からお礼をさせて頂いて、河野さんと別れて、こちらへ帰ってきた。ところが表の戸があいてますもんね、一枚。中の電気が明々と点いてますもん、どうしてじゃろうかと思いよりましたら、私がこの、庭に立ちましたら、そこの座敷てでしたが、「ああ、総一っちゃんが帰ってきた」ちてから、私が帰ってきたといいよるわけです。
 おかげ頂いた、父がですね便所で倒れて意識不明になっておりました。どんなにして良いかわからんもんだから、誰か神様にお願いにいかんならんばってん、はあ、医者にも誰かがいかんならんというように、右往左往しておる時でした。私の帰りましたもんだからもう、みんなのものが安心した。
 「よか、神様に今からすぐにお願いにいくから、よか」ち、いうて私はその足て、また、善導寺にお願いに行かして頂いた。もちろん、その時には、親先生に起きてきて頂きました、奥様にも一緒に起きてきていただいて、一生懸命御祈念してくださる。私は、帰ってまいりました。おかげで助かりました。
 その時どうでしょうかねえ、私が、明日でもよかよかと言うてから自分を中心にしとったら、それは、それから、それから本当、おかげの糸口は、そこにあったんですから、私は、その時帰ってきたときから、家内をあちらへ連れて行きました。ま、おかげというのは、こんなにも繋がっておるもんだということが分かるんです。
 これは、私を中心にしておりゃ、もう、こんなに遅いから、もう、こんだけのおかげ頂いておるのだから、明日の朝一番でお願いに行かして頂こう、では、ひょっとしたら親の死に目にでも間に合うとらんじゃったかも分かりませんです。私が、帰ってきたおかげでです、内のもの、ご本人が安んつ、いや急がなんこつはいらん、私がすぐお願いにいくから、というて、おかげを頂いたということです。ね。
 そういう特別な、おかげがですたい、もう、待ち構えておる、神様が。それでは、家では、そういう、福岡のほうでは、よう不思議だというようなおかげを与えて下さったんです。その、おかげが、いわば、おかげのいわば、何というですかねえ、元になっているわけです。今日、おかげを頂いた。明日お礼に出ろうこうだったらですねえ、いうなら、神様下さろうとする、おかげを頂けないことになるわけです。
 信心させて頂く者はですね、もう、信心させて頂く者は、信心が中心です。「ね」、神様が中心です。そしてです、「ね」、私共は、神様、何事にも神様が本位にならして頂ければです、もう、この辺が分かっているようで分かっていない人が沢山ありますよ。「ね」、今日は、こげんして忙しいから、「ね」、もう、忙しゅうして、もうけるこっちゃなかです、神様がおかげ下さる気になれば神様本意にしてとこういう、神様本意ということ。
 神様本位にしていけば、その次にはです、神様が氏子本位になって下さるような、おかげが頂けれる。「ね」、そのおかげを頂き止めて初めて神様もご満足。私共も、ああ、あん時はああいうおかげを頂く、いわば誕生を作った、いわば、基を作ったということになるのです。
 改めて一つここんところをですね、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」とおおせられる。氏子が神様本意なら、神様が氏子本位になってくださる。「ね」、そういうおかげ頂くために私というものを中心にせずに、いつも、神様を中心にしていかにゃならん。
   おかげ頂きました。